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このページでは、舩井幸雄が(2014年1月19日の舩井幸雄の他界後は舩井勝仁が)いま一番皆様に知ってほしい情報をタイムリーにお伝えしていきます。
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2015年4月6日
心の武装解除 (※舩井勝仁執筆)

 4月になりました。早さを感じるとともに、振り返ればこの3ヵ月、イスラム国や日本における殺人犯罪など、暗いニュースが我々の心を占めました。今現在でも世界のいたるところで、殺し合いが絶えません。自分が生きるために、相手を殺すのでしょうか。
 このような世界がこれからも世界の終わりまで永遠に続くのでしょうか。近代における人類の歴史の根底には、宗教の歴史が大河のように流れています。

 同時に人類の歴史は、宗教の争いの歴史でもありました。そして、それらの宗教を信じる民族の争いでもありました。殺し合いだったのです。人間は、生きるために誰もが武装しているのでしょうか。宗教も武装しているのでしょうか。

 かつてカトリック教会は他の宗教に対して不寛容であったし、同じキリスト教の他の教団や宗派に対しても寛容でなかったと思います。
 聖地エルサレムをイスラエルから奪還しようとした十字軍や、宗教改革後、カトリックとプロテスタントとの争い、戦争も絶えなかったことは、ヨーロッパの歴史を見れば歴然とわかります。そのような過程の中で、いわゆる『第2バチカン公会議』(1962〜65年)で教会は大きな変貌を遂げたと言われています。

 社会と世界における教会の存在意義を見直し、“教会は自己のために存在するのではなく、他者のために存在するのだ”“すべての人の救いのために、あらゆる人々の幸せのためにあるのだ”と。そして、キリスト教団・教派の一致に向けた運動や、他の宗教との対話がなされました。しかしその対話は、とりわけイスラム教との『不和と敵意』の関係は今日でも続き、一朝一夕に成果を生むまでには至っていません。

 今日の世界“3大宗教”として、仏教、キリスト教、イスラム教がありますが、いまの世界はキリスト教とイスラム教、それにユダヤ教を加えた一神教を信じる人々の影響力が強く、彼らによって運営されているようです。日本人からみれば、これらの宗教を十把一絡げに「一神教は不寛容」という論議がなされているような気がしますが、これらの論議は、それぞれの宗教の実態を見ようとしない論議のように私は思います。

 それは、今や流行語になっている「ヘイトスピーチ」と同様、敵視する相手に分かり易いレッテルを貼り、単純化、平易化して批判するやり方です。例えば“イスラム教は怖い、残忍だから”といった短絡的な虚像を、いとも簡単に平気で撒き散らすことです。
 宗教の暴力性を批判するならば、歴史的、具体的事実関係を検証し、例えば「十字軍の時代にキリスト教のこのような行為は暴力的だった」と言わなければならないと思います。あらゆる宗教の歴史が常に暴力の積み重ねと連続ではなかったのです。

 昨今の一神教批判には、“日本の宗教は寛容だ”という日本を称賛し、一神教を批判する構図の主張が見られます。これも一種のナショナリズムに基づく日本文化論ではないでしょうか。
 真摯な自己批判を欠いた自国・民族性の語りは、対岸の人々から見れば危険なのです。 それは異質なものに対し、理解ではなく、不信感や敵意を増徴させるからです。
 
 我々人間は、宗教の違いや民族の違いに関係なく、暴力的で、他者に対する『不寛容』の本性を持っている一面があるのです。
 我々の居住するアジアの地域でも、現に仏教徒がイスラム教徒を攻撃することもあるし、第二次世界大戦時には、日本は海外で、他国の国民に神社・神道を強要し神社参拝を強制したのです。
 
 人間、動植物の全ては、自分の居場所を求めます。特に人間としての集団(国家)は政治的にも、経済的にも、軍事的にも追い詰められた状況が長く続くと、「なんとかしなければ」と過激に居場所を求め、もがきます。そして自分の居場所の継続と、生きるために他者に対して攻撃的になるのです。
 同時に、民族的宗教が国家などの権力と結びつくと、さらなる攻撃性を帯びて戦いを挑みます。“縄張り論”“独占論”を本性とする人間(動物)社会の歴史そのものです。

 個人対個人、個人対国家、国家対国家、の全ての関係において、それぞれが生きるために、それぞれの居場所を求めて戦いながら生きているのでしょう。『武器』を持って。その武器は、民族性、宗教性、を土台とする『力』です。そして経済力、軍事力の『力』も否定することはできません。個人においてもその人の『力量』です。

 いずれにしても、あらゆる相互の関係において『寛容』であることが大事です。
 仏教の開祖である釈迦の教示の基本は、非暴力でした。これらの教えはガンジーが見事に実践しました。英国からの非暴力の独立です。釈迦が国王のために説いた教典の中に、支配者としての心得がありますが、その支柱は、“相手に非を求めるのではなく、自己の責任を重視する”『寛容』の精神です。

 国家、個人のための“武装解除”という言葉と精神があるならば、それは『寛容』の二文字に行きつくと思います。それぞれが、他人のせいにせず、自分の環境や状況に振り回されず、客観的な目を忘れずにいたなら、その時初めて慈しみの共同体が生まれることでしょう。
 武装解除、次回ももう少し触れてみたいと思います。
                                            =以上=

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