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舩井幸雄のいま知らせたいこと

このページでは、舩井幸雄が(2014年1月19日の舩井幸雄の他界後は舩井勝仁が)いま一番皆様に知ってほしい情報をタイムリーにお伝えしていきます。
毎週月曜日定期更新
2009年6月8日
たえず良心に目ざめて行動しよう

 私はいま7月にビジネス社から発刊予定の『二つの真実』の原稿を書いています。
 ほとんど脱稿しました。4−5日前から全文を読み返しています。
 以下は、その中の第3章の一部です。なぜか、いま紹介したいと思いました。というのは、人間の心というのは、時々マヒします。これはたいていの人に見られる現象です。それでもちょっと客観化すると目ざめるものです。いまのような変革期は、常に冷静に客観化して、自分の心を見る余裕が必要だ…という意味で、以下の文章をお読みください。

 それでは地球人の本質の「性善ポジティブ型」ということを少し掘りさげて考えてみましょう。

@教育や訓練、環境などで、人間の良心や心は一時的に麻痺させうるようです。
 われわれの良心は、「人を殺してはいけない」「自分も絶対にできるだけ生きるべきで、自ら死を選んではいけない」と知っているはずです。
 しかし、戦争になれば、敵を殺します。多分、原爆を投下したアメリカ兵もわれわれを機銃掃射で追っかけ回したアメリカの戦闘機のパイロットも、その時はあまり良心に痛みを感じてはいなかったでしょう。さらに、時と場合には、自らの死を怖れなくなります。
 具体例をあげましょう。
 最近、私はよく知っている人の書いた本をつづけて3冊読みました。
 一冊は、私の知人で貿易会社を経営していた野々垣邦人さんの『大船日記』です。 野々垣さんは1929年生れで、2008年に故人になられた人ですが、戦争中、甲府中学生だった彼は、大船の燃料廠(ねんりょうしょう)で、1944年10月7日から終戦の日まで軍需物資をつくる作業に当っていました。もちろん当時の中学生のほとんど全ては強制的に、このような仕事に従事させられていたのです。この日記は1944年10月17日から45年8月19日までのものですが、当時の中学生が、どのように過したかがその気持とともに実によく分ります。
 この日記は、毎日、検閲を受けたものだろうとは思いますが、私とは年齢が近いし、当時の事情が分るだけに感無量で読みました。
 2冊めは教育学者で右脳開発の権威だった七田眞さんの終戦時からの自叙伝です。
彼は1929年生れで、惜しくも今年4月22日に亡くなられましたが、この本は小説の形をとっており、今年4月15日に、七田眞著『魂の遍歴―七海弘志の青春』という題名で文芸社から出版されたものです。七田さんとは親しく付きあってきました。
 彼は中国で終戦を迎え、その後、日本に引きあげて来たのですが、初恋を含め、この本を読んで、私も中学時代を思い出しました。事情が分るだけに、天才・七田眞さんの青春が淡い哀愁を誘いました。
 3冊めは1923年生れの粕井貫次さんの戦争中といっても1943年から終戦直後までの自叙伝で、『雲流るる果てに』(2009年5月21日刊)という題名の本です。粕井さんとは永年、仕事上で私とは親友以上の付きあいをした方です。彼は海軍特攻として特攻隊員の生き残りであり、1945年8月10日には「出撃30分前」の命令が出て、死を覚悟したようですが、敵艦隊が見つからず命拾いをした…ようです。そこのところの文章を、以下に転載します。以下は原文のままです。


★日南沖に敵艦艇接近
 われわれの所属する第五航空艦隊の司令部は第一国分から大隈半島を南へ約35キロの鹿屋基地にあった。そこからは戦局の推移に応じ、出撃態勢の命令が出されていた。
 8月10日の昼前、司令部からの命令。「敵艦艇ガ日南沖ニ接近シツツアリ、乾龍隊ハ直チニ特攻準備、出撃三時間待機ニ入レ」。
 当日の出撃予定は12機。指揮所には既に当日の出撃要員が貼り出された。かねて予定されていた通り私は指揮官であり、一番機の機長兼操縦員、後席の偵察員は三重県尾鷲出身の野地二飛曹であった。「ああ終に俺にも順番が来たか、潔く死に花を咲かそう」と、割り切った気持ちになっていた。
 ところでその後、60数年を経た今日、その時の切迫感がなぜか鮮明には蘇ってこない。出撃命令が敵情によって緊急に発令されただけに、改めて遺書を書く時間のゆとりもなかった。
 ただ日ごろの部下への言動に対し、指揮官として恥じない行動をしたいという自尊心と責任感はいっぱいであった。そして焦燥感と成功への不安感などが交錯し、時間が刻々と経過していった。
 突如「出撃三時間待機ヲ30分ニ変更、攻撃目標ノ所在ハ索敵続行中」の命令。もちろん出撃機12機には250キロ爆弾が既に搭載され、エンジンはいつでも発進ができるように暖気運転を継続していた。
 このときの状況を同期生の古澤龍介中尉が戦後語ってくれたことがある。彼は私よりも7歳年上の親友で戦後に私達夫婦、弟夫婦の仲人もしてくれた毎日新聞記者OB(故人)。古澤家の跡取りだったせいか、この日出撃の搭乗割にはなかった。彼が語ったところによると、「燃料をどれほど搭載しますか」の整備員の問いに対し、S大尉が「半分でいい」と答えたとのこと。彼はこの言葉にひどく憤慨していた。
 その理由が燃料満タンの過々重飛行への心配か、どうせ片道特攻攻撃のため半分の燃料で十分なのか、今もって真相は分からないままである。
 「出撃30分待機」となると、さすが指揮所は重苦しい空気に包まれ、誰も口を開かず、じっと時間の経過を待つばかりであった。ニュース映画に出てきたような出撃に際しての劇的なお別れの会場つくりなども全くなかった。
 戦後、その当時の同僚、部下達と会う機会が何回もありながら、なぜかその時の話になると、みんなが余り語ろうとしない。十年くらい前、国分飛友会(国分海軍航空隊で訓練に従事した甲飛十三期の練習生及び教官・教員の会)での集いでも問いかけたが、当時の様子について、出撃メンバーの確かな名前がはっきりせず、誰もの記憶があいまいであった。
 人間というものは、とりわけ精神的な極限の心理状態については思い出したくないのか、記憶が薄れるのかもしれない。
 司令部から索敵機の情報が入らないまま時間が刻々と経過し、あたりに夕霞が漂い始めた。雲量は10、雲高500くらいか。そして今にも雨が降り出しそうな雲行きとなってきた。
 月明かりのない海上を少なくとも150キロ彼方の日向灘への飛行。そして弾幕下をくぐって敵艦艇への突入が果たして正確に成しうるのか。一発必中を果たしうる技量が部下達にあるだろうか。天候と時間の経過を見ながら、不安と焦燥感が広がりつつあった。
 そのとき伝令が飛び込んできた。「出撃中止、攻撃三時間待機ニ戻ス」。聞くところによると、索敵機がその後の敵艦艇の所在を確認できず、また乾龍隊の操縦錬度ではこの天候と時刻下において、戦果につながる攻撃が無理という判断とも推察される。そして間もなく「出撃待機解除」となった。
 それから5日後の8月15日の正午、玉音放送があるというので、官舎のラジオの前に士官達が集まった。そして聞きとりにくい天皇陛下の玉音放送を傾聴した。たいそう聞きにくかったが「どうやら日本が負けたらしい」。全身からスーッと力が抜け、頭も体も空ろになってしまった。
 かくて私は今日まで命を永らえることになったのである(転載ここまで)。


 以上のとおりですが、当時の中学生から、25才くらいまでの志願をして軍人になった純な日本人の若人たちのほとんどは、天皇陛下のために、また日本の国のために死ぬことを、その瞬間や直前にはあんがい平気だったように思います。
 それが教育や訓練、そして環境のせいであるように、私には思われるのです。
 というより、人の心や良心は、一時的には麻痺することが、私は自分の経験上や、粕井さんの本などから、実によく分るのです。人とはこんな存在です。
しかし、彼らの99%は敗戦を機に、人間としての良心と心を取りもどしました。これもまた人だからです。
 人とは、どうやら、このようなすばらしい存在のようです。
                                            =以上=

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