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このページでは、舩井幸雄が(2014年1月19日の舩井幸雄の他界後は舩井勝仁が)いま一番皆様に知ってほしい情報をタイムリーにお伝えしていきます。
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2009年10月5日
ムー文化はあった。今後の教訓

 9月の連休(9/19〜9/23)中に「ムー大陸」と「ムー文化」についての本を何冊か読みました。聖書の暗号の中に私とムーの関係が何回も出てきたからです。
 私の結論らしきものは「ムー大陸と、チャーチワードが書いた大陸は太平洋の中央にあったのではなく、琉球古陸ではないだろうか」…などということとともに、「ムー文化はたしかにあった」…と言ってよさそうだということです。
 

 ムーのことを紹介した英国陸軍大佐でムー研究家のチャーチワードは、米国人と言われています。彼の有名な著書、1931年刊の『失われたムー大陸』にムー帝国最後の日のことを彼はつぎのように書いています。これはムー帝国の首都が崩壊した描写として有名な文章です。その一部を紹介します。

 ――水辺のハスの花は、ムー帝国の限りない繁栄を約束するかのように、この日も、清らかな白い花弁を咲かせていた。――ムー帝国の皇帝であり、最高の神宮であるラ・ムーは、この日、透明の神殿と呼ばれた首都の官殿にひざまづき、いつものように朝の祈りを天帝に捧げた。――首都の神殿には屋根がなく、天帝の象徴たる太陽から放たれた光は、さんさんと神殿にさしこんで――
 「神の恵みに慣れ、神の存在をないがしろにすれば、どんな恐ろしいことが起こるか、忘れるでないぞ」
 折にふれて、こう警告してきた、ラ・ムーであった。
 ――大地は突然、不気味な地鳴りとともに躍りはね、至るところで大きな口を開けたかと思うと、そこかしこの裂け目からは、天地をゆるがす大音響を伴って、巨大な火柱が噴き出した。――地の裂け目から噴き出した溶岩は、氾濫する水のように大地を浸し、都市や町々に流れ込んだ。逃げまどう住民の頭上には、赤熱の溶岩が闇を照らしながら、大小無数に降り注いだ。――降り注ぐ溶岩に打たれた船は粉々に砕け、熱い海に飲み込まれて消え去った。――はじめのうち、それはまるで轟音とともに接近する、黒い山脈のように見えた。が、やがて上空を不気味に染める噴火の余光で、最初に山脈と見えたものが、近くにある大石柱や尖塔より、はるかに高い壁を作って迫る、大きな波頭の連なりであることを知ったとき、人々はハッキリと、自分たちの運命を悟った。ムー帝国の住民を、ことごとく滅したのは、想像を絶する巨大な津波だった。
 異変が起こったのは、今から約1万2千年前のことである。
 さしもの繁栄を謳歌したムー大陸も、こうして、6400万の住民とともに、太平洋の海面下に没し去った。
 ムー帝国の首都崩壊の様子である(転載ここまで)。


 一方、ムー文明について、私の知人の琉球大名誉教授の木村政昭さんは以下のように分析しています。これも大事なところを転載します。

 ムー大陸では金銀がふんだんに使われていたというが、確かに日本列島や琉球列島では金にまつわる伝承が多い。琉球の古典『おもろさうし』にも黄金財宝伝承譚があり、活発な海外交易によって金銀財宝を豊富に蓄えた時代があったようだ。
 最近、南西諸島の西側に並行して走る長大な舟状のへこみ(沖縄トラフ)の海底に、超高圧・超高温の黒煙を吹き出す穴“ブラックスモーカー”が存在することがわかった。その周辺には、地下から運ばれた金・銀・銅などが濃縮した「熱水鉱床(ねっすいこうしょう)」が形成されていて、将来的には非常に有望な鉱物資源にもなり得る。そのほか、この海域の西方に広がる東海大陸棚では、海底石油や巨大な天然ガス田の存在が確認されている。
 やはり、太平洋海域の他のどこと比較しても、ムー大陸伝説の発祥地にふさわしそうである。

チャーチワードの“ムー文明度”をチェックする

 それでここでもう一度、チャーチワードのイメージした「ムー文明」をチェックしてみよう。

1◆ 巨大な石の神殿や祈念碑や石像を建てることを好んだ。――これはまさに、南西諸島各地の海底遺跡や、与那国島の海底ピラミッド群に当てはまる。
2◆ 土は豊穣(ほうじょう)で美しい熱帯にあり、約6400万の人々が暮らしていた。――6400万人という人口は信じられないが、古代太平洋文明圏の中で琉球古陸の人口密度は、相対的に高かったとは推定できる。
3◆ 人々の生活は富み、金銀宝石で装っていた。――一般的に金銀は大陸性地殻から産出する。琉球では古くから、金にまつわる多くの伝説が語られてきた。
4◆ 首都ヒラニプラをはじめ、大都市には屋根のない神殿があり、太陽の光を浴びながら神への祈りが捧げられた。――屋根のない神殿とは、後代の琉球文化を代表する沖縄の城や拝所(御獄)そのものである。
5◆ 大きな河口にある港には装飾された船があふれ、世界中に向けて出入りし、昼も夜も活気に満ちていた。――活気に満ちた港の情景は、“海のモンゴロイド族”が活躍した“琉球ムー大陸地域”に当てはまる。
6◆ 大陸各地の原生林にはマストドン象の群れがのし歩き、動物たちは野生の環境を損なわれることなくのびのびと生きていた。――象は現在、アフリカとインドに生息しているように、元来は大陸に生息する動物である。だが、かつて琉球古陸を形成していた深海底や陸地からは、象、あるいは象である可能性の高い化石が見つかっている。
7◆ 大陸は狭い海峡によって、3つに分かれていた。なだらかな丘のほかには、山というほどのものはなかった。文化の中心であった7つの大都市を中心に、きっちりと石畳を敷き詰めた広々とした道路が都市から都市へ、村から村へと張り巡らされていた。――このあたりの描写は、現在の沖縄の情景とほとんどぴたりと重なってくる。ことに琉球弧が、トカラ・ギャップ、ケラマ・ギャップで区切られて3つの部分に分かれるところなど、そのままであると言ってもいい。
8◆ 地震と噴火は、特に南部のほうで激しかった。地震に伴って大津波が襲い、南方の都市の多くが海中に飲み込まれてしまった。噴火口からはどろどろに溶けた溶岩が流れ出した。傾斜のない土地なので、溶岩はやがて1ヵ所にとどまり、円錐形に積み重なっていって奇妙な形の岩山となった。――これは、古琉球南部で、八重山(やえやま)方面のことを指しているのだろう。ここには1771年、“明和の大津波”と呼ばれた世界最大級の津波が押し寄せ、1万人以上の死者を出している。また、琉球弧には海底火山が複数あり、津波も火山噴火と関連して発生した大地震によって起こった可能性を否定できない。
9◆ やがて、ムー大陸の国民ほとんど全部がまったく災害のことを忘れ去ったころ、あの不気味な地鳴りが響き、連続して起きた激しい地震が、大地を木の葉のように動かした。…大地は大きく放り上げられ、またどすんと落ち込んだ。これをもう一度繰り返し、大地はひび割れた。さしわたし5メートルもあるような大火柱が、中央高く立ち上がった。――この部分はたびたび琉球古陸ほかで私も言及してきたことであり、沖縄での状況と見比べることもあるまい。チャーチワードの記したものを続けよう。――津波が襲い、そのためムー大陸は砕け散った。かくして人間がこの世に築き上げた最初にして最大の文明は、一夜にして崩壊した。
 このように見ていくと、まさに琉球古陸がムー大陸伝説のルーツといってふさわしい雰囲気を持つことがわかる。かねがね竹内均氏は、チャーチワードのムー文明を大平洋古代文明と理解すれば、ムー文明は縄文文化が花開いた時期か、それよりあとであると指摘していた。
 ところが、このように大陸が沈んだという「過去」を持った場所が太平洋の中にあることを誰も知らなかったので、この話は眉唾(まゆつば)ものと思われてきた。しかし、琉球列島最後の“陸橋”はそのようにして水没していったことが、事実としてわかってきたのである。
 琉球古陸は、ちょうど1万8000〜1万4000年前以降をピークに、長さ1200キロ、幅100キロにわたる大規模な地域の陥没を起こしていた。チャーチワードの検証は間違っていたが、半面、真実の一郎も衝(つ)いていた。琉球古睦がまさに失われたムー大陸だったのだ。

                           (中略)

 世界の例を見ても、1万2000年前に水没したとされるアトランティス文明は、実は今から3500年ほど前に水没したというのが現実的な見方となってきた。一方、同じく1万2000年前に水没したとされたムー文明も“琉球ムー大陸”のことだとすれば、3000年前ごろに水没した可能性がある。また、チャーチワードのムー大陸では、港々がとてもにぎやかなところであったという。それは、この時代の“琉球ムー大陸”のイメージに合いそうである。いや、まさに当てはまるといっていいのだ。
 偶然にも、“実際のアトランティスとムー”は、大西洋と太平洋側で同じ運命をたどったのである(転載ここまで)


 私は、なぜか宮古島が大好きで、ここへここ十余年で十数回も行っています。
 多分、島のすみずみまで知っているくらいで、多くの知人もできましたが、何よりも私が惹かれたのは張水御嶽というお宮さんと新城定吉さんの石の庭なのです。
 それらにつきましては何冊かの拙著や写真集に書きましたから、説明はやめますが、ムーという国が昔あり、その繁栄していたムーが一度にして沈んだのは、まちがいないように思います。それらのことをこの二ヵ所は、なぜか私に教えてくれるのです。
 その理由は、「エゴ」と「儀式」と「科学」と「自然への感謝を忘れた」からだというのもまちがいないようで、これもこれらの場所の霊(?)が教えてくれたことです。
 このような人々の心の波動が、大天災をおこした…という説もなりたちそうな気がします。
 この中の「儀式」のかわりに「金銭への信仰」を入れると、現在になりそうな気もします。
 私がムーの本を何冊か読んで気がついたのは、できれば「エゴ」をへらし、科学を正しく理解し、「金銭」への信仰をほどほどにし、「自然」への感謝が大事だ…とういムー文化からの反省でした。
 よろしければ木村政昭著『新説 ムー大陸沈没 沖縄海底遺跡はムー文明の遺産か?』(2006年12月 実業之日本社刊)の1冊でもよいからお読みください。
 いろいろ考えさせられます。
                                           =以上=

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