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2005年12月2日
「佐久間象山」などのシンクロニシティ

 幕末の日本が生んだ最高の知識人は佐久間象山という人だと私は思います。
かつて私は『この一粒の知恵の種』(三笠書房刊)という著書を出しました。十年以上も前のことです。その「まえがき」に私はつぎのように書いています。

 二十年ほど前、山口県萩市を訪れたときのことである。狭い質素な松下村塾跡を見て、深い感慨を覚えたものである。この地から、高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ、品川弥二郎、山県有朋、伊藤博文、木戸孝允など、日本の新しい時代の夜明けを担った偉材が続々と輩出したことを思うと、一人の偉大な師・吉田松陰の影響力に感じ入るとともに、「教育」の力の大きさに改めて心打たれたのである。
 そしてこのとき、松陰の師・佐久間象山には松陰のほかにもう一人高弟がおり、それが越後長岡藩大参事・小林虎三郎だと教えられた。小林虎三郎については、名前を知っている程度でしかなかったので、私は大いに好奇心を刺激された。
 いつか時間を見つけて虎三郎のことを調べてみたい、そう思っていた矢先のことである。長岡市在住のある経営者の方から、山本有三の戯曲『米百俵』(新潮社刊)を頂戴した。同書は小林虎三郎のことを主題にした書である。このタイミングのよさからして、小林虎三郎との不思議な“縁”を感じざるを得ない。
 「米百俵」と小林虎三郎のことは、本書第一章で詳述するが、彼の故郷・長岡は、明治、大正、昭和を通じて人材を輩出し続けた稀有の所と言える。松下村塾に比べてもけっして遜色はない。たとえば、日本最初の医学博士・小金井良精、吉田内閣の法相・小原直(なおし)、東京帝国大学総長・小野塚喜平次、辣腕のアメリカ大使・斎藤博など・・・。連合艦隊司令長官・山本五十六元帥もその一人である。この人材輩出は、小林虎三郎が明治三年、百俵の米を元手につくった国漢学校による人材育成と、彼から受け継がれてきた「米百俵精神」に由来するものである。このことは誰も否定できないだろう。
 小林虎三郎は、目先の利益にとらわれず、将来のことを見つめて物事を判断し行動することの大切さを説いた。そしてその原点を「人を生かす教育」に置き、自らもそれを実践した。
 ちなみに英語では教育することを「EDUCATE」と言うが、その語源の「EDUCE」とはギリシャ語で「引き出す」ということである。
 つまり、人を教え、育てることは、その人の人間性を引き出し、やる気を引き出すことと言ってよい。これによって世の中を変えていく。また、自分自身を啓発することは、いい意味での自分の個性をうまく生かすことと言ってよい。これによって社会に貢献する。つまり、自分の「本懐」を遂げるためにもっと知恵を絞り、これによって自分自身を富ませるとともに社会をも利するのである。こうした実例の典型が吉田松陰の松下村塾の教えであり、小林虎三郎の国漢学校の教えである。
 佐久間象山の一粒の「知恵の種」が、吉田松陰や小林虎三郎を生み、彼らの蒔いた一粒の「知恵の種」が、多くの逸材を生んだ。
 そのような意味で、本書では一粒の「知恵の種」を小林虎三郎の考え方を中心に探り、まとめてみた(抜粋ここまで)。

 その後、1999年に『これからは人財の時代』を私はビジネス社から出しましたが、この本では吉田松陰のことを、かなり詳しく書きました。
 ともかく三十年ほど前から、私は、吉田松陰や小林虎三郎の師であっただけでなく、勝海舟や坂本龍馬などに大きな影響を与えた佐久間象山に非常に興味がありました。
 ところで今月号(2005年12月号)の『フナイメディア』のイヤシロチ探訪には象山の生まれた地や象山神社などを掲載しています。私は11月に彼の生家跡などを訪ね、彼のことにもっとも詳しいエコール・ド・松代倶楽部の八田慎蔵さんに、いろいろ教わってきました。彼の本名は、佐久間象山と書きますが、「ぞうざん」と言うのが、正しいようだというのもこの時知りました。
 ところで先週『先見経済』の11月の速報の「第3週号」を読んでいますと、作家の加来耕三さんが「尊大さ故に才覚を活かせなかった幕末の偉大な先駆者」として彼のことを書いていました。シンクロニシティです。その中の一部をここに転載します。「なるほど」と思いながら読んだのですが、佐久間象山が尊大だったか否かは私には分りません。とはいえ加来さんの文章には教えられました。お読みください。

 世の中には、賢さを愛嬌で包むことができず、あたら才覚を活かせず、人生を中途半端におわる者がいる。
 大半は、尊大でありすぎたのだ。
 幕末期、和漢洋の学問を究め、西洋流砲術の大家としても凄まじい才能を発揮した、佐久間象山などは、さしずめその先駆者といえよう。
 幕末の文化八年(1811)、信州松代藩の下士に生まれた象山は、天保十三年(1842)に藩主・真田幸貫が幕府の老中として海防掛をつとめるにあたり、その顧問となった。
 彼の秀才ぶりは、元服前から藩内に知られていたが、藩主幸貫はいう。
「予の家中にあって、ずばぬけた駿足は啓之助(象山)であるが、ちと駻(かん)が強すぎて、頗(すこぶ)る難物である。恐らく予の外には、馭(ぎょ)し得る者はあるまい」
 象山は心から、この主君を敬慕していた。が、幸貫への態度は例外。
 学問の師や先輩は、象山の尊大な性格を危惧し、改めるようにと忠告するが、耳を貸すような男ではなかった。
 象山は主君の依頼で、西洋流砲術を江川太郎左衛門に学ぶこととなるが、なかなか大砲製造の秘術は講義してくれない。ならば、と半年で退塾し、ほぼ独力で西洋流砲術をマスターした。
 いまだ、片言しかオランダ語が読めないのに、ショメールの百科全書を引いて硝子の製造を試み、ペウセルの砲術書を読んで、いきなり三斤野戦や十二拇野戦砲などを試作、実演試射をやってのけている。
「この世に私ほど偉大な人物はいない」
 象山がそう自負したのも、一面、無理はなかった。弟子も吉田松陰、小林虎三郎、勝海舟など多士済々。
 元治元年(1864)7月、象山は京都三条木屋町で攘夷派の刺客に暗殺され、五十四歳の生涯を閉じた。
「後ろ疵(きず)を受けて落命するとは、武士として不覚である」
象山の常日頃の性格――尊大で人を見下すのが災いして、藩内の政敵からも指弾され、佐久間家は断絶となってしまう(抜粋ここまで)。

 それにしても最近の私には、このようなシンクロニシティが私にはつづきます。しかもそれは重要なことばかりなのです。たとえば、以下のようなことです。

@「神坂新太郎さん」と「野中邦子さん」(「思い」を実現させる考え方や条件)
A「伊勢神宮」と「伊弉諾神宮」と「沼島」と「艮の金神さん」

・・・などなどが、ここ1、2ヶ月の私におこった主なシンクロニシティですが、いまのところ、これらを気にしながら楽しんでいます。
                                                  =以上=

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